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2010年02月08日 15:21
久しぶりにYouTubeで懐かしい曲を聴いた。
いつかは俺だってと、夢を見ていたあの頃。
20代の頃勤めていた法律事務所は、ビルの2階にあった。
1階には小さな喫茶店があり、昼休みには時々コーヒーを飲みに行った。
店内は薄暗くお世辞にも雰囲気が良いとは言えなかったが、それも慣れると妙に落ち着いた。
店の奥まったところに、ジュークボックスがデンと置かれていた。
隣のビルのOLたちは、毎日のように来て
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2010年01月03日 15:17
新年は、粉雪が舞う年明けとなった。
いつもはばらばらの家族が全員そろうのは、唯一正月だけ。
何も言ってこなかった東京の二男も、元日の夜に突然帰ってきた。
新幹線が取れなかったので、元日になってしまったようだ。
元日から勤務だった妻も夜には帰ってきて、家族全員で新年を祝った。
特別何もいいことはないし、多くを望めば足りないことばかりだ。
それでも家族全員がそろって新年を迎えることができること、もしか
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2009年12月29日 15:03
鳴く鹿の 声さえ凍てし わが村は
行く人もなく 声ひそめおり
千両の 実を啄ばみし 鳥の目に
赤く傾く 夕陽見ており
南天に 群がる鳥の 声聞きて
春の支度の 手をとめにけり
咲き残る 山茶花の赤 目にしみて
行く年ははや 残りとてなし
初春に 帰る便りも なきわが子
健やかなると 思い巡らし
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2009年12月21日 14:57
連日厳しい寒さ。今朝は初雪が降った。
ほんの5・6センチだったけれど。
我が家の裏庭では、白いさざんかの咲き終えるのを待っていたかのように、ピンクの椿が咲いている。
毎年たくさんの花をつけるので、切るのが忍びなく伸び放題になった枝は、2階の窓に届きそうだ。
鮮やかな深紅のサザンカとは違いそのはかなくやさしい色は、花の乏しい寒い季節に、心さえ温かくしてくれる。
木の下に立つと夜の間に散った花が、あち
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2009年11月16日 16:01
深夜、テレビでドキュメンタリーをやっていた。
若年性認知症を16年間患って、62歳で亡くなった男性と奥さんの日常。
途中から見たが、自分のことも奥さんの名前もわからなくなっていた。
各地で講演を行っていて、最後の講演のビデオでの言葉に胸が痛んだ。
「おかあちゃん(奥さん)のことを憶えていたいのに、忘れてしまいます。けれど私の心の中にはずっと残っていると思いたい。」
自宅介護ができなくなり最後は施設
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2009年10月27日 15:54
どこへ流れるのかも
誰に届くのかも
わからずにそれでも
手紙をガラス瓶に詰めて
波間に投げ入れる
風船の端に手紙を結わえて
空へと放つ
たとえ永遠に戻ることのない
時のしじまに飲み込まれていくのだとしても
祈りにも似たせつない思いを
この広い空のどこかにいる
まだ見も知らぬ君へと送る
流れていく時間に流されるだけの日々に
それでも流されないでいられるだろうか
そんな少年のような真っ直ぐな
真っ白な
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2009年07月09日 15:46
息子が二浪の末念願の東京芸大へ入ったのが、ついこの間のような気がする。
変わり映えしない日常も、確実に時を刻んでいく。
4年間の大学生活を終え、当然のように大学院へ進んだ。普段は大人しくてやさしいが、頑固なところは子供の頃から変わらない。親がどう言おうと自分が決めれば決めたようにする。
その大学院の2年間も、あっという間に終わった。これで最後になると思い、2月の修了作品展を見に、上野まで足を運んだ
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2009年07月01日 15:44
私は高校に入ってから洋楽を聴くようになった。
大袈裟にいえば生き方を決定づけた、あのビートルズとも高校で出会うのだが、それはまた別の話だ。
初めての洋楽は、フォークソングだった。ボブディラン、ジョーンバエズ、PPM・・・。
反戦には特別関心があったわけではなく、ただ音楽として楽しんでいた。
中でもPPMの曲が好きだった。気の合うクラスの仲間と、意味もわからず無茶苦茶な英語で歌っていた。
シューシュ
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2009年06月28日 15:41
新聞の片隅にケニー・ランキンの死亡記事が小さく載っていた。
70年代後半から80年代にかけて、シティミュージックやAOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)など、アダルトコンテンポラリーな音楽がブームになっていた。
マイケル・フランクス、ボス・スキャグス、スティーブン・ビショップ・・・など、ソフト&メロウな音楽が盛んに流れていた。
ケニー・ランキンもその中の一人だった。
最初はラジオから流れるのを
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2009年06月27日 14:34
95年、吉田拓郎はニューアルバムのレコーディングの前に、中島みゆきに曲を依頼した。「もう歌が作れない。遺書のような曲を作ってくれ。」
拓郎が、人のために曲を作ることはあっても、自分の曲を人に頼むことなど考えられない。それほど行き詰っていたということだろうか。
レコーディングのために外国へ出発する前日に、中島みゆきからデモテープが届いた。そのテープには、彼女の泣き叫ばんばかりの歌声が入っていたという
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